23日の沖縄全戦没者追悼式で、沖縄県立宮古高校(宮古島市)3年の仲間友佑さん(18)が自作の平和の詩「これから」を朗読した。戦争を直接知らずとも、凄惨な歴史を学んできた。世界で争いが絶えないなか、平和を祈り続ける覚悟を新たにした。
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「泣く我が子を殺すしかなかった 一家で死ぬしかなかった」。平和教育で集団自決を学び、戦禍の理不尽さに深い悲しみを覚えた。
地上戦から79年がたち、地元の浜辺では子どもや外国人観光客が遊ぶ日常が広がる。他方、テレビでは連日のようにパレスチナ自治区ガザの紛争やウクライナ侵略の報道を目にする。多くの民間人の犠牲となる現状に強い怒りを覚え、創作を決めた。
戦地に赴いた曽祖父は過去を語らぬまま亡くなった。「戦争の『せ』の字も知らない」との一節は自らの境遇を表現した。
インターネットで沖縄戦の体験者が証言する動画を見て、改めて戦争の恐ろしさと向き合った。「それでも変わらないというのなら もっともっとこれからも 僕らが祈りを繫(つな)ぎ続けよう」。語り継がれた悲劇を知るからこそ、平和は自分たちで守る。そう決意し、これからも祈りをささげる。
「平和の礎」に祈り 遺族ら「降り注ぐ砲弾の恐怖今も」
最後の激戦地、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園では23日早朝から遺族らが訪れ、戦没者の名が刻まれた石碑「平和の礎(いしじ)」に手を合わせた。
「一人ひとりの顔や話。全部思い出す」。浦添市の佐久川富子さんは強い日差しの下、礎に花を手向け、刻まれた両親や知人の名前に何度も触れながら涙を流した。90歳を超えても毎年、慰霊の日は欠かさず訪れるという。
那覇市にあった自宅は空襲で焼け、墓の中などで寝た。家族で北部へ避難する道中、機銃掃射で周りの人が次々と倒れた。たどり着いた収容所は衛生環境が悪く、母はマラリアを患って命を落とした。「生きなさい」という最期の言葉が忘れられない。
八重瀬町の屋宜宣治さん(89)は沖縄戦で犠牲になった父に花と酒を手向けた。屋宜さんは当時10歳。地上戦が激しくなり、自宅から約30㌔離れた北部に歩いて逃げた。「降り注ぐ砲弾の音が怖くて足が動かなくなりそうだった」と振り返る。
数年前からひ孫らと一緒に祈りをささげる。悲惨な地上戦を経験した世代が少なくなるなか、屋宜さんは「これからは体験者の声を直接伝えられない時代になる。できる限り記憶を紡いでいきたい」と強調した。
南城市の保育士、松島幸代さん(37)は夫と3人の息子とともに、曽祖母らの名が刻まれた礎に手を合わせた。「今年も来たよ、と伝えた。戦争があってはいけないことを次の世代にしっかりと語っていかければ、と思い毎年来ている」と話した。
昨年他界した祖父は生前、地上戦を生き延びた経験を多く語らなかった。松島さんは身内でさえ記憶を語り継ぐことの難しさを痛感。「家族で摩文仁の丘を訪れることを大切にしている」と語った。
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