「平和の礎」がたつ平和祈念公園。慰霊の日には多くの人たちが訪れる=2018年6月23日=沖縄県糸満市、朝日新聞社ヘリから

 米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場と呼んだ。爆弾の降り注ぐさまは「鉄の暴風」と形容された。いまから79年前、日米最後の地上戦が沖縄であった。どのような戦いだったのか。何をもたらしたのか。6月23日は、沖縄戦の犠牲者らを悼む「慰霊の日」。解説します。

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なぜ、沖縄が戦場になったのか

 日本は米国などと戦争をしていた。太平洋の島々を奪った米軍は、日本本土を攻めるための前進基地として沖縄占領を目指した。日本はすでに敗色濃厚のなか、沖縄の日本軍は、日本本土を守るため、米軍を沖縄にひきとめて時間をかせぐ「持久」作戦をとった。

「沖縄戦」とはどういうものなのか?

 沖縄で最初の大きな被害は1944年10月の「10・10空襲」だ。死者は軍人と民間人あわせて668人とされる。45年になって、航空機で軍艦に体当たりする日本軍の「特攻」攻撃も始まった。特攻による死者は数カ月間に約2500人ともいわれている。

 米軍は45年3月末、空襲や海上の軍艦からの砲撃につづき、慶良間諸島に上陸。4月1日には沖縄本島中部の西海岸に上陸した。このころから約3カ月にわたる戦いを一般に、沖縄戦と呼ぶ。

読谷村の海岸沿いの光景。米軍の猛攻撃で護岸は破壊された。日本軍は丘陵地帯へ逃げ、米軍は大した被害も死傷者も出さずに浜に上陸したという(1945年4月1日撮影、沖縄県公文書館提供)

 沖縄本島の上陸地から本島北部にかけては約2週間で、米軍に占領された。日本軍がおもに待ち構えていた本島中部では、約40日間にわたって激しい戦いがあった。しかし、追い詰められて、首里城地下にあった司令部を捨て、日本軍は本島南部へしりぞく。大きな戦いはその後約1カ月間続いた。

住民の被害は?

 沖縄戦は、軍隊と軍隊、軍人と軍人が戦う、というだけではなかった。沖縄戦では、子どもも含む住民が、足りない軍人の代わりや手伝いをさせられたりした。軍人も住民も、混在したまま地上戦がつづいた。日本軍が南部に追い詰められてからは特に、米軍の無差別な攻撃に、軍人も、住民も次々と命を奪われていった。こうしたことから、沖縄戦では、軍人よりも住民の命が多く失われたといわれる。かつて日本が統治していたサイパンやテニアン、サハリン、満州などでも地上戦はあったが、いまの日本で、このような体験をしたのは沖縄だけだ。

 沖縄戦の教訓として「軍隊は住民を守らなかった」と語りつがれている。日本兵に命を助けられた人はもちろんいる。でも、日本兵に命を脅かされたり、スパイとみなされ、実際に命を奪われたりした人たちがたくさんいる。

2人の日本兵に話しかける米軍の中尉。少年兵とみられる(1945年6月17日撮影、沖縄県公文書館提供)

地上戦の特徴とは?

 太平洋戦争の間、日本本土では、飛行機から爆弾を落とされる空襲で大変な思いをした人がたくさんいる。一方、沖縄には米軍が上陸し、住民が暮らしていた場所で、米軍と日本軍が戦った。空からの攻撃にくわえ、陸からは銃や大砲、火炎放射器で襲われ、海からは艦砲射撃で狙われた。爆弾が大嵐のように降り注いだことから「鉄の暴風」とも言われる。米軍は「ありったけの地獄をあつめた」戦場と呼んだ。

 とくに多くの住民が犠牲になった沖縄本島南部の喜屋武半島では、1カ月間に約680万発、住民1人あたり50発ほどが撃ち込まれたともいわれている。

どれくらいの人が戦った?

 米軍は後方支援も含めておよそ55万人、日本軍はおよそ10万人。武器の量や性能をあわせた戦力の差は米国が日本の10倍以上だった。そのうえ日本軍の10万人のうち、2万数千人は、沖縄にいる一定の年齢の男子を急きょ兵隊として集めてつくられた「防衛隊」や「義勇隊」、いまの中学生や高校生くらいの生徒たちでつくる「学徒隊」だった。

 防衛隊の年齢は17歳から45歳というが、実際にはもっと幼い子どもや高齢の人もいたといわれる。軍隊の訓練も受けず、武器もないまま戦いに参加させられることもあった。学徒隊では「ひめゆり学徒隊」や「鉄血勤皇隊」がよく知られている。

いったい何人が亡くなった?

 米国側は1万2520人。日本側はその15倍、18万8136人が亡くなったとみられている。このうち沖縄県出身以外の日本兵は6万5908人。沖縄県出身の軍人・軍属(正規の軍人、防衛隊や学徒隊など)は2万8228人。一般の住民は9万4千人。沖縄県民全体では12万2千人以上、県民の4人に1人が亡くなったといわれている。

 ただ、いずれも推計した数字だ。戸籍も焼けてしまって、亡くなった人の数ははっきりわかっていない。家族全員が死んでしまった家もたくさんある。名前もわからないまま、戦没者の名前を刻んだ「平和の礎」には、○○さんの「長男」とだけ彫られている人さえいる。当時子どもだった人のなかには、両親が亡くなって自分の生年月日も、名前さえわからない人もいる。

 米軍の砲弾や銃弾を受けただけでなく、自ら命を絶つ「自決」で亡くなった人や、餓死や栄養失調、マラリアで死亡した人もたくさんいる。沖縄から疎開(避難)したのに亡くなった人もいる。沖縄戦前年の1944年8月、九州へ向かっていた船「対馬丸」が米軍に攻撃されて、多くの児童が海で溺れて亡くなっている。

自決とは?

 軍人が自ら命を絶つ、つまり自殺することを「自決」といった。当時の日本軍には「戦陣訓」という教えがあり、「生きて虜囚の辱めを受けず」、つまり捕虜になるくらいなら死を選べ、という考えが大切にされていた。沖縄の日本軍のトップ、牛島満司令官は、本島南部においつめられて「自決」している。大けがを負って洞窟内に寝かされたたくさんの軍人に、毒が入った飲み物が配られて死に追いやられたことを「集団自決」ということもある。

沖縄師範学校の学徒たちが戦没した「健児の塔」の下にあるガマ(自然壕〈ごう〉)で手を合わせる人びと=2013年6月23日、沖縄県糸満市

 一方で、住民の「集団自決」もあった。米軍の激しい攻撃が続くなかで、家族や近所の人たちがガマ(自然洞窟)の中や森でまとまって命を絶つといったことが、慶良間諸島や伊江島、沖縄本島各地で起きた。「集団死」と呼ばれることもある。日本軍は、住民も、役所も、兵士と同じように命をかけて国を守れという「軍官民共生共死」という指導方針をとって、住民が米軍に投降することもゆるさなかった。そうしたことが背景にあった。

歴史教科書でなにが問題になった?

 住民の「集団自決」については高校の歴史教科書を更新するときに、文部科学省と教科書をつくっている会社とのやりとりで「日本軍が強制した」という記述が削除されたことがある。それに対して「集団自決」を体験したり、体験を聞いたりしてきた沖縄県のたくさんの人たちが、大切な歴史を消さないで、と声をあげた。結果、「軍によって集団自決に追い込まれた住民も出た」「軍により集団自決を強いられた」といった表現が復活して盛り込まれた。

 削除された背景の一つとして、ノーベル文学賞作家の故大江健三郎さんが書いた「沖縄ノート」という本をめぐる裁判があった。日本軍が「集団自決」を命じた、という本の記述について、当事者の元軍人らが命じていないと訴えた。結果的には、最高裁判所が、個々の元軍人が直接命じたという証明はないと判断する一方で、「軍官民共生共死の一体化」の大方針の下で日本軍が深くかかわっていることは否定できないと結論を出した。全体として、日本軍の強制や命令とする見方もありえる、ともいっている。

沖縄戦はどうやって終わった?

 沖縄の日本軍のトップだった牛島司令官が自決したのは6月23日(22日説もある)でこの日をもって、日本軍という組織での戦いは終わった。このトップは自決の前に「最後迄(まで)敢闘し悠久の大義に生くべし」と命令を出したと言われている。つまり、降伏するのではなく、死ぬまで戦いつづけろ、と。

 6月23日は、沖縄で「慰霊の日」として休日になっている。ただ、実際はトップの自決も知らずに、おびえながら逃げたり、隠れたりしつづけていた人もたくさんいて、6月23日以降に亡くなった人も多い。久米島では8月にかけて、日本軍が住民を殺している。米軍が沖縄戦を終えた、と宣言したのは7月2日。沖縄など南西諸島の日本軍が全面降伏に調印したのは9月7日だ。

「平和の礎(いしじ)」に刻銘された親戚の名前に手を合わせる子どもたち=2023年6月23日午前7時29分、沖縄県糸満市、山本壮一郎撮影

その後の沖縄は?

 米軍は日本全体を占領し、全国各地に基地をつくった。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立したが、沖縄は切り離され、72年の本土復帰まで米軍統治下におかれた。その間、日本各地の米軍基地はどんどん減らされたが、沖縄ではあらたにつくられたり、広げられたりした。その結果、日本にある米軍専用の基地の7割が沖縄に集中し、いまに至っている。

 一方、いまも地中には、沖縄戦で亡くなった何千もの人の骨が埋まったままだ。撃ち込まれた爆弾で、たまたま爆発しなかった不発弾も約2千トンが地中に残っていて、戦後何十年もたってから爆発して亡くなった人もいる。

 不発弾が爆発する。遺族のもとにかえれない遺骨が新たに見つかる。米軍基地も大きくは減らず、さまざまな被害が続く。「まだ戦は終わっていない」という人が少なくない理由はこうしたことにある。トラウマといって、何十年たっても、米軍機をみたり、戦争のニュースを聞いたり、花火の音をきいたりすると、怖い体験を思い出して眠れなくなったり、気分が落ち込んでしまったりする人もいる。(木村司)

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