太平洋戦争末期の1945年6月、大都市に続いて始まった「中小都市空襲」。山口県宇部市の空襲でやけどを負い、きょうだい3人を亡くした武永信子さん(87)=同市=は、今も元軍人のような補償を受けていない。「同じ日本人で戦争に遭ったのに、なぜ差別を」と話す。(橋本誠)

 中小都市空襲 「空襲・戦災を記録する会」の工藤洋三事務局長によると、マリアナ諸島のB29爆撃機部隊が全国59都市を攻撃。第1回は浜松市などに対する45年6月17〜18日で、数都市ずつ計16回続いた。米軍は、小さな都市の空襲でも、蓄積すれば日本の継戦能力を奪うと分析。目標に特別に軍事的重要性があるわけではなかったという。

◆79年前、空襲できょうだい3人を失い

 「顔と手と足をやけどしました。右手の人さし指の爪が取れ、血がいっぱい出ていた」

空襲でやけどした手について話す武永信子さん。下はきょうだいの葬儀の香典帳=山口県宇部市で

 瀬戸内海沿いの静かな集落で、武永さんが79年前のけがのことを話す。左手の人さし指は曲がり、足首やひざにも傷痕がある。  45年7月2日未明の第4回中小都市空襲。宇部市には約100機が焼夷(しょうい)弾を落とし、約200人の死者が出た。警防団の父は市街地の自宅に残り、当時9歳の武永さんは、幼い弟をおぶった姉、兄と逃げた。  「姉が焼夷弾の直撃を受けたらしい。私にも燃え移ったけど、兄が助けてくれた。でもショックで記憶がない」。後に父から聞いた話では、弟はその付近で、姉は救護所で命を落とした。兄も8月に亡くなった。

◆補償なし 「それはおかしいね」「そんなばかな」

 武永さんは救護所で赤チンを塗られた。ピンセットで顔の傷に触られ、痛くて泣いた。翌春まで学校を休んで療養。父が野草を当てて包帯をしてくれた。「やけどしてるから結婚はできんだろうと思ってました。商売を一生懸命やりました」。高校卒業後は父の酒店を手伝った。33歳で結婚し、近くの保育園で60歳まで料理を作った。  ある日、親族から、軍隊で戦死した弟への補償が国から出ていると聞いた。空襲では何もないと話すと、「それはおかしいね」と言われた。50歳ぐらいのころ、「戦争に遭われた方は公民館へ」と言われたが、「原爆の方だけです」と帰された。「職場の若い先生たちがそんなばかなって同情してくれた。同じ戦争なのに、なんで空襲やら、やけどした人がないんかねって」  10年ほど前、全国空襲被害者連絡協議会に入ったが、救済法はできていない。今国会も閉幕間近となり、衆院第1議員会館で今月21日に開く集会の案内はがきが届いた。足が悪くて行けないが、「一生懸命やってくれて感謝しています」。

◆覚えていられないほどの厳しい体験

宇部空襲追悼碑の前で話す岡本正和さん=山口県宇部市で

 武永さんは2021年夏、宇部空襲の追悼碑建設を市に求める元小学校教師の岡本正和さん(71)らの集会に参加。昨年7月の追悼碑建立後、武永さんのきょうだいの葬儀の香典帳2冊が親族方から見つかった。岡本さんが確認すると、1冊は1945年8月19日の姉と弟の葬儀、もう1冊は翌20日に亡くなった兄の葬儀のものだった。  「葬式を2日連続で出した父親を思い、涙が出た」と岡本さん。「武永さんは、覚えていられないと自動制御するほど厳しい体験をしたのだろう。『記憶の消えた少女』です」と話す。 

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