2015年、新国立競技場について話す槇文彦さん=東京都港区で
東京大で丹下健三さんに師事。米ハーバード大大学院に留学し、准教授も務めた。約15年の米国生活で、合理性や機能性を追求する20世紀生まれのモダニズム(近代主義)建築を学んだ。帰国後は「奥」や「間」など、ゆとりのない空間でも深みを与える日本的な空間のつくり方に着目。モダニズム建築の枠組みを広げるような洗練された作品で注目を集めた。 その集大成が、1967年の設計から約30年かけて段階的に開発した代官山ヒルサイドテラス。集合住宅やオフィス、店舗などが連なる作品で、単一の建築物だけではなく、広場などの外部空間も含めてデザインした。都心でありながら緑が多く、幅の広い通り沿いに低層の建物が並ぶ伸びやかな景観は、人気スポットとなった現在の代官山のイメージを形作った。 2021年の東京五輪・パラリンピックの主会場となった新国立競技場の計画について、規模が巨大で神宮外苑地区の歴史的景観を破壊したり、建設費が膨らむなどの問題点を13年、いち早く指摘し、見直し議論をリード。15年7月の白紙撤回につながった。 他の代表作に、デビュー作で日本建築学会賞に選ばれた名古屋大豊田講堂(名古屋市)、幕張メッセ(千葉市)、米中枢同時テロで倒壊したニューヨークの世界貿易センタービル跡に建てた4ワールド・トレード・センターなど。93年、プリツカー賞、国際建築家連合金メダル、11年、米建築家協会金メダル、13年文化功労者。15年、芸術院会員。東大教授も務めた。 ◇◆「社会への責任」信念、新国立競技場問題でも訴え
「建築家は、社会に対して責任を負っている」。槇文彦さんはよく口にした。 いったん建ってしまえば建築物はその場所を占有することになる。周辺に暮らす人たちは、いやが応でもその建築に向き合うことになる。気に入らなければ自ら遠ざけることができる、小説や絵画など他の芸術作品とこの点で異なる。 だから「市民に開かれた建築である」ことを大切にし、建築の公共性を問い続けた。それは経済効率を優先し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返して来た日本社会への問題提起でもあった。槙さんの代表作・代官山ヒルサイドテラス。代官山の街づくりの中心となってきた=2023年4月、木口慎子撮影
この建築思想を体現したのが、「スローフード」になぞらえ「スローアーキテクチャー」とも呼ばれた、代官山ヒルサイドテラス(東京都)。約30年かけた、最初の整備が始まったのは高度成長期。経済性を優先すれば、一帯は高層ビル群になってもおかしくなかった。だが、「時が建築の最終審判者だ」と話していた通り、静謐(せいひつ)な街並みは地域の魅力を高めた。 「日本建築界最大の事件」と呼ばれた新国立競技場の問題で、2013年に声を上げた際の取材でも「社会への責任」を強く訴えていた。中でも「なるべく国民に知らせないで、議論を避け、とにかく事業を前に進めようとしている」と政府の姿勢を批判したことが印象に残っている。 外苑地区では再び巨大再開発が始まった。「議論を避け、とにかく前に進めようとする」との批判がある。同じような再開発はそこかしこでも聞かれる。槇さんなら何というか聞いてみたかった。(森本智之) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。