弟の名前が刻まれた慰霊碑の銘板を手にする遺族(左)ら=2日、神戸市で

 「大勢の立ち会いで弟の名前を入れられた。本当にうれしい。ありがたい」  神戸空襲の犠牲者名が刻まれた慰霊碑(神戸市中央区)で、2日にあった刻銘追加式。幼くして亡くなった男児の兄(87)が「疎開していて死に目に会えず、ずっと『ごめんな』という気持ちだった」と話す。背負い続けた肩の荷が下りたような表情だ。

◆記者は「神戸空襲を記録する会」前代表のおいにあたる

 36人増えて計2267人が刻まれた碑で、遺族らが手を合わせ、名前をさする。2013年、「神戸空襲を記録する会」が集めた名簿と募金で建立された。中心になったのは、21年に亡くなった中田政子前代表=享年(75)。記者(宮畑譲)の母方の伯母だ。

中田政子さん

 1945年3月17日の大空襲の夜、政子さんは私の祖母のおなかの中にいた。祖母は大やけどを負い、政子さんの姉の弘子さんは1歳10カ月で短い生涯を閉じた。祖母は空襲体験の語り部になり、政子さんは会の代表に。碑が完成した際は「命は数ではなく、お一人お一人お名前がありました。思いを引き継ぎたい」と語ったという。  おいの私も幼い頃、母親に連れられて慰霊祭に行った。祖母の手のケロイドを見て「これ何?」と聞いた記憶も漠然とある。近年は空襲の行事を親戚一同で手伝うのが恒例だった。  だが政子さんの活動を詳しく聞いたことはなく、今春、歴史研究者の資料集で取り上げられているのを知り、驚きと感慨を覚えた。「普通のおばちゃん」に見えた伯母が、戦争体験の継承に奔走した原動力は何だったのか。親交のあった人たちを訪ねた。 

 神戸空襲 米軍が1942年の本土初空襲や、45年の5回の大規模空襲で焼夷(しょうい)弾などを投下。神戸市によると、死者7500人以上、負傷者約1万7000人、被災者約53万人に上った。45年6月5日の大空襲は野坂昭如さんの小説「火垂(ほた)るの墓」で知られる。7月24日には模擬原爆が神戸市内に落とされた。

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◆神戸空襲の犠牲を後世に伝える慰霊碑 2013年に除幕式

 神戸空襲を記録する会の前代表で、記者の伯母だった中田政子さん=享年(75)。精魂を傾けた「いのちと平和の碑」の式典は2日、神戸市中央区の小高い公園内で行われた。記者は2013年の碑の除幕式にも参加したことがある。  1945年6月5日の空襲で、当時4歳だった弟を亡くした堺井昭武さん(87)は「名前を刻むことができて、気持ちが落ち着いた」と感謝を口にした。  同年3月17日の空襲で父方の祖父母が亡くなった作田隆哉さん(63)は、祖父母のお墓参りをしたことがなかったという。「子ども心に聞いてはいけないと思っていた。ただ、父の戦後は終わっていないと感じていた。両親に思いをはせていた父の心に一つの区切りがつくのではないか。感謝申し上げます」

犠牲者の名が刻まれた慰霊碑を指でなぞる作田隆哉さん(右)ら=2日、神戸市で

 空襲の遺族にとって、碑が大切なものとなっている。これを身内が残した事実の大きさを、今更ながら重く受け止めた。

◆語り部としても活動 多忙な日々送る

 政子さんが会の代表に就き、記者の祖母にあたる三木谷君子さん=享年(67)=の空襲体験や自身の思いを小学校で語る活動をし、戦跡ウオークを始めたことは知っていた。ただ、どんな思いで代表になったのか、日々の活動やイベントの準備をどうしていたのか、高校卒業後に神戸を離れたこともあり、詳しく聞いたことはない。  今回取材して、伯母がどれだけ精力的に活動していたかを初めて知った。碑に刻まれているのは名前だけだが、いつどの空襲で亡くなったのかといった個人情報を管理しなくてはいけない。語り部としての活動も最盛期には日に2回、月のスケジュールがびっしり埋まるほどだったという。

◆伯母政子さんを身ごもる祖母君子さんが遭遇した空襲

 母親の君子さんが遭った45年3月17日の大空襲。神戸市兵庫区にある橋の付近で、猛火と爆風に吹き飛ばされ、顔や両手両足にやけどを負った。橋には多くの人が避難していたが、火に焼かれ大半が亡くなった。  やけどで動けず、連れて逃げていた1歳10カ月の弘子さんを足に乗せていたが、再度の爆撃で意識を失い、わが子も見失った。夜明けとともに、やけどをした体を何とか引きずり、子どもを捜したが、見つけることができないまま、自分も病院に担ぎ込まれた。  自分自身が助かるのもやっとで、おなかの中の子は「あきらめなさい」と言われた。しかし、奇跡的に助かり、終戦直後の9月、政子さんが生まれた。

◆政子さん「母がよろこんでいると思うわ」

 戦後、毎年3月17日になると、君子さんは現場を訪れて供養をしていた。「ひょっとしたら生きているかもしれない」と、孤児院を訪ね回ったこともあったという。個人的な弔いに変化が生じたのは71年、地元紙の神戸新聞が戦争企画を始めるため、経験を募集したことがきっかけ。  投書した君子さんの体験は企画に採用され、同年に発足した会の世話人になった。被災した場所の近くのお寺で合同慰霊祭が行われるように。君子さんが営んでいたお好み焼き店に新聞社の幹部や会の代表などが入り浸るようになった。

代表に就く前の政子さん(左)と君子さん

 母親の店を手伝っていた政子さんは会にも携わるようになる。そして97年、前代表の死去にともない、52歳で引き継いだ。  政子さんのスケジュール管理や大量の資料整理を行っていた夫の悟さん(78)は「ことあるごとに『(母親が)よろこんでいると思うわ』と言っていた。姉の生まれ変わりという気持ちがあったのでは。動機の半分は母親の思いを遂げてあげたい、ということだったと思う」と振り返る。

◆女性が市民活動で能力を発揮した時代

 「聡明(そうめい)で粘り強い人だった。普通の主婦ができる生活人でありながら、何百人を前に感銘させる話もできる。希有(けう)な人だった」  「神戸空襲を記録する会」世話人で、近現代史を研究する神戸大の長(おさ)志珠絵教授は、政子さんをこう評する。会の資料を冊子にまとめている長さんは、今年3月発行の第6集で政子さんと君子さんが会に関わった経緯を収録。今回の取材のきっかけとなった。  活動が続いてきた理由を「三木谷家の家族葬のようなものを地元の新聞社がバックアップし、政子さんが若くして引き継いだ。世代交代が早いうちに行われ、適材適所にはまった」と分析する。ジェンダー史の研究も行う長さんは「政子さん、君子さんの時代は男性が外で働く時代。女性が市民活動で潜在的な能力を発揮した。次の世代は女性も仕事をしている。若い人が関わるハードルは上がるかもしれない」とみる。

◆「この町にこんなことがあったと伝え続けていかなあかん」

 現代表で高校教師の岡村隆弘さん(64)は、部活動で生徒が空襲体験者に聞き取る中で政子さんと知り合った。自身も伯母を空襲で亡くしており、2019年、体調を崩した政子さんに代わって代表になった。「遺族として共感できる部分があって。けど、本当は政子さんに復帰してほしかった。この町にこんなことがあったと伝え続けていかなあかん」

1945年9月の神戸市内=神戸市文書館提供

 事務局長の小城智子さん(72)は「代表を含めて遺族でなくてもよい。ただ、なかなか遺族以外でやってくれる人はいない」と嘆く。遺族ではないが、中田家に集まっていた名簿などの資料を引き継いで管理している。「私は中田家のようにはできない。会を支える人がもっといないと」  会は政子さん亡き後、「薄くても広い」つながりの活動を模索しているように見える。そんな中、政子さんの次女で記者のいとこの馬場敦子さん(50)が深く関わるようになっている。「体験者が語り続けていくことはいずれ終わりが来る。私たちも既に次にどう引き継ぐかを考えている」  「空襲3世」を自称する敦子さんは20歳ごろから会を手伝い、現在は世話人。地元小学校で母や祖母のことを語り、2日の式典では司会を務めた。来年の戦後80年には、養成したボランティアに戦跡ウオークのガイドをしてもらう構想を練っている。  「私たち一家が『創業家』というものでもない。いろんな人に参加してほしい。戦後100年の区切りまでは会を続けたい。それができれば、母親や祖母にほめてもらえるかな」

◆記憶の継承は簡単ではない…それでも

 記者が祖母や伯母から「空襲の記憶を引き継いでほしい」といった直接的な言葉を聞いた記憶はない。入社した時、戦争体験者からの聞き書きはやりたい仕事の一つではあったが、それが新聞記者を志望した動機というわけでもない。

宮畑譲記者

 今は会の世話人を務める敦子さんも昔からそのつもりではなかった。親族でも、意識的に戦争の記憶を引き継いでいくことは簡単ではないように思う。親族故に伝えづらいこともあるかもしれない。他人に対してはなお難しいだろう。  それでも今回の取材で、祖母や伯母の思いは多くの人に引き継がれていることが分かった。伯母は碑という目に見える形も残した。今後、神戸の活動は一時的に下火になることはあっても、いつか、誰かにその思いは必ず伝わるはずだ。  神戸では偶然が重なった面もあり、他の地域でも同じようにいくかは分からない。だから、今も存命の体験者は可能な限り語ってほしい。一方で、若い世代に関心を持ってもらう知恵も絞らなくてはいけない。この先、空襲4世、5世の世代になっても、体験者の思いと戦禍の記憶を引き継ぐために。(宮畑譲)

◆デスクメモ

 終戦直後、親族に戦争体験者がいるのは当たり前だった。今は相当減っているが、友人や知人に広げればかなりいるはず。79年前に終わった戦争はそれほど巨大なものだった。現在の日本の起点でもあり、誰もが無関係ではあり得ない。二度と繰り返さないために、伝え続けなくては。 (本) 

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