高齢者の定義を5歳引き上げたらどうか。そんな案が政府の経済財政諮問会議で示された。提案したのは、経団連のトップら。「誰もが活躍できる社会」を目指すためだというが、原則65歳の年金受給開始年齢を70歳にし、「70歳まで働け」と求める布石のように思える。「自己責任」に拍車をかけていいものか。(木原育子、森本智之)

◆「健康寿命が延びる中」「誰もが活躍」

経団連の十倉雅和会長

 「誰もが活躍できるウェルビーイングの高い社会の実現を目指す」「『新たな令和モデル』というべき政策パッケージを構築すべき」。23日の経済財政諮問会議で示された資料ではそんな文言が並び、具体案として「高齢者の健康寿命が延びる中で、高齢者の定義を5歳延ばすことを検討すべき」と標榜(ひょうぼう)された。  提案したのは経団連の十倉雅和会長や経済同友会の新浪剛史代表幹事ら。諮問会議では民間議員と呼ばれる。国民の生活に直結しそうな話だが、真意は何か。

◆たたき台を作ったのは内閣府

 経団連の広報担当者は「あくまで民間議員の意見が反映されたもの。経団連の立場のペーパーではない」、同友会の広報担当者は「こちらでは分かりかねる」と答えるにとどまる。  政府はどう捉えるのか。  提案があった経済財政諮問会議は経済や財政の重要事項について有識者の識見や知識を活用し、首相のリーダーシップを十全に発揮させることが目的だとか。

内閣府

 事務局を務めるのは内閣府。新村太郎参事官補佐に聞くと「ペーパーのたたき台はこちらで作成した」と明かした一方、「提案はあくまで諮問会議の民間議員の方々。こちら側が詰める話ではない」。つまり作ったが、提案していないということか。そして「法的な拘束力があるものではなく、各省庁が絶対やらなければならないという趣旨のものでもない」と話した。

◆雇用義務、年金支給…みな「65歳」

 曖昧な部分が目立つ今回の提案だが、そもそも「高齢者」は誰を指すのか。  厚生労働省の「健康用語辞典」は「年齢が高い人を指す」と説明。高齢者施策の根拠となる老人福祉法でも、高齢者の年齢に関する明確な定義付けはない。  ただ、高齢者は65歳以上の印象がある。それもそのはず、世界保健機関(WHO)は65歳以上を高齢者と定義。65歳で線引きする制度も多い。高年齢雇用安定法では、65歳まで雇用することが企業側に義務づけられる。年金受給の開始年齢も原則65歳だ。  その中で提案された「高齢者5歳延長」。ネット上では悲哀に満ちた意見が噴出する。「年金支給開始を70歳からにする準備だ」「70歳まで馬車馬のように働くのか」という具合にだ。

◆社会保障費カットの「雰囲気づくり」

 淑徳大の結城康博教授(社会保障論)も警戒感を口にし「高齢者といえば70歳以上という、まずは雰囲気づくりの環境整備だろう。誰の指示というわけではなく、霞が関や永田町がゆくゆくはそうなってほしいと願う世界観だろう。念頭にあるのはもちろん、社会保障費の削減だ」とみる。

日本年金機構本部=東京都杉並区で

 「年齢を重ねても自分でやり繰りを」と言わんばかりの自己責任論は唐突ではない。2019年には金融庁の審議会が「老後は年金以外に2000万円が必要」とする報告書をまとめた。ただ批判を受けて撤回した。  今年喜寿の政治ジャーナリスト、泉宏氏は「ありがたいことに私は例外で働き続けている」と前置きしつつ「物価高など、市民生活は苦しくなるばかり。国からは年金受給年齢の引き上げ議論ができない。諮問会議を利用して言ってもらっている形だ」と読み解く。

◆60歳の壁…「定年で給料5分の1に」

 70歳までは現役—。もしそんな社会になったら、どう思うか。27日、東京都内で道行く人らに聞いた。  東京都三鷹市の男性会社員(64)は「勤務先で60歳で定年を迎え、今は再雇用で働いているが、給料は現役時代の5分の1程度まで減った」と述べる。  定年後の再雇用で給料が減る現象は「60歳の壁」と呼ばれ、日本の多くの企業でみられる。「70歳まで現役ということなら、定年も70歳まで延長してほしい。給料は低いまま、年金の受給開始年齢も70歳まで引き上げられれば、生活に困る人も出てくるのでは」

◆働かせたいなら、働ける場を提供して

 東京都練馬区のリフォーム会社経営の男性(79)は「うちの会社は70代の職人さんがたくさん働いている。年金は少額で当てにならないし、長く働けるのはいいこと」と歓迎した。

記者団の取材に応じる新浪剛史氏=昨年7月、首相官邸で

 ただ75歳で腰痛がひどくなり、手術も経験した。「年齢を重ねれば、体に悪いところが出てくる。できる人は働けばいいが、病気などで働けない人が困窮しないような仕組みが必要」  もう少し若い世代からはさらに否定的な意見が目立った。  台東区の男性会社員(45)は「死ぬまで働けってことでしょうか」と苦笑する。  「高齢者の仕事といえば、誰もやりたがらない仕事を安い賃金で引き受けるイメージ。昔で言う『3K』の職場。長く働かせたいなら、もっと働ける場所を提供してほしい。高齢者はただの人手不足の補完勢力ではないという社会にならないといけないのでは」  40代の別の男性会社員は「長く働くのは嫌だけど、自分が60代になっても働かざるを得ないのではないか。年金には全く期待していないので」と口にする。  「高齢者の年金や健康保険など若い世代が負担しているのに、自分が高齢者になった時、恩恵にあずかれる期間が短くなるのではないか。そうだとすると苦労を押しつけておいて見返りがないようなもの。不公平だ」と話す。

◆低賃金との「二重の冷遇」に警鐘

 多くの人が不安を抱く「70歳から年金」「70歳まで働け」という社会。その一方で年金財政は曲がり角にはある。国立社会保障・人口問題研究所が昨年公表した推計によると、総人口は2070年には20年と比べて3割減の8070万人に。65歳以上は全体の4割弱に達する。65歳以上が払う介護保険料も増加の一途をたどっている。  とはいえ、「70歳まで就労」には危うさがはらむ。

経済財政諮問会議で発言する岸田首相=4月19日の会合で

 千葉商科大の常見陽平准教授(労働社会学)は「これまで企業は、高額な報酬を受け取る中高年に関し、人件費をカットするためにリストラをしたり、役職定年の制度を導入したりしてきた。今現在は人手不足なので、再雇用後の低い賃金のまま、企業にとって使いやすい労働力を確保しようとしているのではないか」と述べ、冷遇が重なりかねないと警鐘を鳴らす。

◆リスキリングも「過酷な働き方」招く

 その上で「全員の給与水準を守ろうとすれば、企業側も大きな負担になる。単に働く年齢を引き上げるだけではなく、その間の雇用や賃金をどうするのかセットで議論しなければいけない」と述べる。  労働問題に詳しい嶋崎量弁護士も同調する。  「高年齢者が安い賃金で働かされる問題は既に生じている。70歳に引き上げられればその期間が長くなることになる」  今回の提案では、高齢者の定義見直しとともにリスキリング、つまり学び直しも重視するが「自社での雇用継続ではなく、都合よく人手不足の職場に転職させることを前提にしているのではないか」といぶかしみ「高年齢者にとって過酷な働き方につながりかねない」と懸念した。

◆デスクメモ

 最近、健康診断や人間ドックで体の異変が見つかるようになってきた。50歳まであと数年。いつまで元気に働けるかという不安はある。そこに来て「70歳から年金」「70歳まで働け」を思わせる提案。無理に働いて体を壊さないか、寿命が縮まらないか。そんな心配が湧いてくる。(榊) 

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