秋田県名産の「いぶりがっこ」も多くの生産者が事業継続を断念。「故郷の味」が危機を迎えている(資料写真)
◆「早春を告げる味」来年はもう作らない
「『来年はもう作らない』って言われたの。塩分控えめで味も気に入っていたのに」。5月中旬の平日の昼下がり、静岡県御殿場市のJR御殿場駅前のベンチに座っていた高村裕子さん(80)は数カ月前の地元農家とのやりとりを思い出し、声を落とした。富士山麓で「冬場に採れる青菜」として重宝されている地場産品「水かけ菜」の収穫=静岡県御殿場市提供
高村さんが来年食べられないのは、農家手作りの「水かけ菜漬(づけ)」。富士山の雪解け水が湧き出し、地下水豊富な県東部の御殿場市と小山町の特産品だ。米作りの裏作で10月ごろに種をまき、1〜3月ごろに収穫して数日間漬け込む。シャキシャキとした食感とほのかな苦味。冷凍を除き、春先までしか店頭に並ばないため「早春を告げる味」として地元で親しまれる。 作り手によって塩の種類やその濃度、トウガラシを一緒に漬けるかなど漬け方が異なり、同じ「水かけ菜漬」でも個性が生まれる。パッケージ記載の生産者の名前を見て選ぶ人も多く、高村さんも同じ農家から20年以上購入していた。◆営業許可には100万円以上の改修費用
この農家が漬物作りをやめるきっかけとなったのが、2018年の食品衛生法の改正だ。それまで各地の条例に基づく届け出制が多かった漬物の製造販売が、保健所の「営業許可」が必要となった。21年6月の施行から3年間の経過措置が取られていたが、今年5月末にその期限を迎える。6月1日からHACCPに沿った衛生管理に取り組む必要がある小規模な営業者などを例示した、厚生労働省の資料(同省サイトから)
営業許可を得るには、国際的に使われている衛生管理の手法「HACCP(ハサップ)」に沿った管理が義務づけられており、加工施設と住宅の分離、指で触れないレバー式や自動の蛇口の設置、窓や網戸の設置…などの基準を満たさなければならない。 直売所などの手作り漬物の多くは、農家が副業で自宅などで生産している。今回の改正で改修が必要な場合がほとんどで、100万円以上の費用がかかる生産者も少なくないという。◆農家は「割に合わない」と諦めてしまう
御殿場小山水かけ菜生産組合長の鈴木平作さん(73)も昨年12月、改修に踏み切った。祖父母の代から水かけ菜漬を60年以上作ってきた。自宅敷地内にある加工所に東京新聞「こちら特報部」は案内してもらった。 10畳ほどの部屋に入ると、天井や壁に真新しいキッチンパネルが張られている。「木造で屋根裏や壁がむき出しだったけど、『水分を吸い込まないようにして』って保健所から指導を受けてね」と鈴木さん。木が出た部分も塗料で加工したといい、神棚を見上げて「あれもだよ」と笑った。自宅敷地内の加工所で水かけ菜漬を作る鈴木平作さん=1月、静岡県御殿場市で(JAふじ伊豆御殿場地区本部提供)
出入り口そばに設けた手洗い場などと合わせ、改修費は80万円。御殿場市が補助金制度を創設したおかげで、自己負担は約20万円で済んだ。ただ市の補助は1事業者あたり最大100万円。鈴木さんは「大規模な改修が必要となったら『割に合わない』って考えて、やめる農家もいるよね」。 昨年34人いた生産組合のメンバーは今月15日時点で27人に。地元のJAふじ伊豆御殿場地区本部が昨年春に開いた「漬物製造の営業許可申請に向けた説明会」には約150人来たが、今月21日時点で許可は86件にとどまる。JAの担当者は「農家の方と話すと、施設改修が負担になっていると感じる。地元の味が失われないよう支援したい」と話す。◆秋田県名産の「いぶりがっこ」もピンチ
各地で「地元の味」は危機を迎えている。大根を煙でいぶし、ぬかに漬けた秋田県名産の「いぶりがっこ」も例外ではない。産地として有名な横手市が23年春に生産者らに実施したアンケートでは、187人のうち半数弱の87人が今年6月以降は「事業を継続しない」と回答した。秋田県名産の「いぶりがっこ」(資料写真)
「ちょうど良い区切り。やり切った」と話すのは、いぶりがっこを20年以上作ってきた同市の高橋一郎さん(81)。営業許可を取るために手洗い場などを設ける必要があったが「収穫から漬け込みまでの作業は重労働。80歳を超えて体力的に厳しいし、後継ぎもいないから」と改修せずにやめる決断をした。 高橋さんは「食べた人に喜んでもらえるとうれしかった」と振り返り、今回の改正について「いぶりがっこは保存食。食中毒なんて聞いたことがない」。前出の水かけ菜漬の鈴木さんも「塩にしっかり漬けているし、食中毒は起きたことがない。食の安全は大切だけど、浅漬けとは違うと思うけどね」と口にした。◆きっかけの食中毒は「浅漬け」だったのに
そう、18年の食品衛生法改正で漬物が営業許可制となったのは、北海道で12年に起きた浅漬けの集団食中毒がきっかけだ。札幌市の食品会社が製造した白菜の浅漬けで、腸管出血性大腸菌O157感染の症状を169人が訴え、子どもを含む8人が死亡した。 厚生労働省の担当者は「あの死亡事例があったので漬物は許可業種となった」と話す。とはいえ、浅漬けは低塩で、野菜の鮮度を大切にするから非加熱殺菌。一方で、ぬか漬けやみそ漬けは加熱殺菌しており、かす漬けや塩漬けも保存性が高い。漬物に詳しい東京家政大大学院の宮尾茂雄客員教授(食品微生物学)は「過去20年で食中毒を聞いたのは浅漬けか、キムチ味を付けた浅漬けのような『和風キムチ』だけ」と話す。食品衛生法の改正の趣旨などを紹介する厚生労働省のサイト(スクリーンショット)
どうして浅漬けに限定せず、漬物全般がまとめて許可制の対象となってしまったのか。その過程が改正法施行前の18年8月〜19年4月、有識者らによる「食品の営業規制に関する検討会」で議論されていた。 議事録を見ると、塩漬けとぬか漬けを除いて許可制を導入していた東京都が紹介されたり、委員から「浅漬けは漬物ではなく、むしろサラダ。全く漬物とは別。いくつかのタイプの漬物をイメージしてはどうか」「浅漬けはなぜ漬物かとの疑義が出る」との意見も出たりしていた。だが厚労省側は「基本的に漬物は塩で脱水して次の工程に進む。浅漬けも一晩とかの世界だが、その処理がされるので漬物になる」とした。◆厚労省は「明確な線引きが難しかった」というが
その後の厚労省の検討で、漬物は製造工程などを問わず、ひとくくりに営業許可制の対象となった。厚労省の担当者は「昔と違い、さまざまな漬物が出てきた。消費者の健康志向で、塩漬けでも減塩の商品も出てきた。浅漬けと他の区別を試みたが、明確な線引きが難しかった」と明かす。道の駅で販売されている手作りの漬物コーナー。生産者によって味の違いもあり、親しまれてきた=愛知県豊根村で
宮尾教授は「道の駅に漬物を出す農家は小規模で、高齢化している場合が多い。営業許可制への変更は『お金もかかるし、手続きも煩雑だし』とやめる引き金になってしまった」と指摘し、「漬物は日本の伝統ある食文化。自治体は補助金や共同加工所の設置、申請の手助けなどで生産者に寄り添ってほしい」と望む。 ハサップに詳しい食品コンサルタント会社「フーズデザイン」(東京都)の加藤光夫社長は「中古の厨房(ちゅうぼう)機器やビニールカーテン、100円ショップの隙間ふさぎテープなどを活用しても必要な施設改修はできる」と紹介した上で、「ハサップが要求しているのは施設そのものではない。食品の取り扱い方や消毒、清掃など衛生管理の方法だ」と強調。「いくら施設を整えても、十分な衛生管理をしなければ食中毒は出てしまう」と呼びかける。◆デスクメモ
確かに郊外の直売所などでは、よく手作りの漬物が売られている。生産者の名前や似顔絵が入った野菜や果物とともに、その土地の風情を感じさせるソウルフードだ。衛生管理はもちろん重要だが、これほど定着している漬物の今後を左右する法改正。国会でどれだけ議論されたのか。(本) 鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。