壁面の下側に見られる白っぽい層が火砕サージ層。その上からは火砕流と土石流の地層が出土した。火砕サージ層の下には軽石層(平らな面)があり、壊れた屋根瓦が散乱していた

 イタリア南部のベズビオ山は、約2千年前の大噴火で南麓の都市ポンペイを埋没させたことで知られる火山です。東京大のチームは、北麓に位置するソンマ・ベスビアーナ市の遺跡で20年以上前から発掘調査を続けています。この噴火による被害はポンペイなど山の南側が中心だったとされてきましたが、北側にも火砕流などが押し寄せ、町を壊滅させていたことが新たに分かりました。古代ローマの火山災害の実態に迫る貴重な成果です。 (榊原智康)  ソンマ・ベスビアーナ市はベズビオ山から約5キロに位置します。ローマ時代の歴史書には、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~後14年)は山の北側にあった別荘で亡くなり、その後別荘があった場所は皇帝を顕彰するための施設になったとの記述が残っています。  同市の遺跡は1930年代に見つかりましたが、本格的に調べられてはいませんでした。東大チームは、この遺跡の建物が皇帝の別荘跡で紀元後79年の噴火で埋もれたとみて2002年から発掘調査を進めました。  調査を始めてほどなく、遺跡を埋めた噴火の時期は79年ではなく5世紀で、建物は2世紀に建てられたものだと判明。当初の見立ては外れた形になりましたが、ギリシャ神話の酒神ディオニュソス像など貴重な彫像2体が出土し、それらは05年の愛・地球博(愛知万博)で展示されました。

●破壊力

79年の噴火で埋まった建物の一部(真上から撮影)。右上の穴が風呂を沸かすかまとみられる設備で、建物は初代ローマ皇帝アウグストゥスの別荘の可能性がある=遺跡の写真は、いずれもイタリアのソンマ・ベスビアーナ市で(東京大提供)

 昨年の調査では、さらに深い場所から見つかったより古い時代の建物内から新発見がありました。大規模な浴場に送る湯を沸かすかまとみられる設備や、ワインなどを入れる「アンフォラ」と呼ばれる素焼きのつぼが並んだ部屋などが出土し、床には壊れた瓦や壁材などが散乱していました。  この建物の地表面には軽石の層が出土し、成分を分析したところ、ポンペイなどで見つかった79年の噴出物と一致。かまとみられる設備に残っていた木炭などの年代測定では、大部分が79年の噴火より前の「1世紀前半」との結果になりました。これらの分析を踏まえ、チームはこの噴火が建物を埋めたと結論付けました。  軽石層の上には、火砕サージの層が10センチ程度あり、その上に火砕流や土石流でできた数メートルの層が見つかりました。山の北側には外輪山があり、従来はそこで火砕サージや火砕流はせきとめられたと考えられていました。今回の発掘により、火砕流などの噴出物は外輪山を乗り越え、山の北側の町に及んでいたことが明らかになりました。  火砕サージは数百度と高温で、火砕流よりガス成分が多く密度が小さいことが特徴です。時速は100キロに達することもあります。発掘初期からチームに参加している藤井敏嗣(としつぐ)・東大名誉教授(マグマ学)は「火砕サージ層は10センチ程度だったが、これは最終的に降り積もった厚さ。噴火時は10メートルを超える高さで建物を壊しながら進んだ。その後に火砕流と土石流が押し寄せて建物が埋もれた」とみます。  日本の火山の噴火でも火砕サージは発生することはありますが、木造の建物だと襲われた際に燃えてしまうことが多いといいます。今回の建物は石造りのため、壊れてはいましたが燃えずに残っていました。  藤井さんは「調査を進めれば(建物の被害状況などから)火砕サージの威力や速度を推定でき、79年の噴火がどんなものだったのかさらに詳しく分かる」と指摘。その上で「火砕サージは破壊力が大きいものだと理解してほしい」と火山防災面からの発掘の意義を語ります。

●皇帝の別荘か

 東大チームは4月に記者会見し、79年の噴火で埋もれた建物はアウグストゥスの別荘だった可能性があると発表。根拠として、同じ場所で2世紀に建てられた建物に皇帝の権威を象徴する月桂冠の模様のレリーフが施されていたことや、山の北側ではこの場所以外にローマ時代の大規模な別荘とみられるものは見つかっていないことなどを挙げました。  「79年の噴火の痕跡が出てくるはずだと思って20年間発掘を続けてきた」。こう振り返るのは開始時から調査を手がけ、チームの初代代表を務めた青柳正規・東大名誉教授(西洋古典考古学)です。別荘と断定するにはアウグストゥスの一族が造ったことを示す銘文などが出土しなければならないとしましたが、現時点では「別荘である可能性はここが一番高いのでは」と強調しました。  チームは今年の夏も発掘を進める予定です。

◆プリニウスの名が「プリニー式」の語源に 富士山宝永の5倍超の噴出

 79年のベズビオ山のような噴火は「プリニー式」と呼ばれます。噴火の際に救援のために活躍した博物学者でローマ艦隊の提督・大プリニウス、彼の甥で当時の様子を詳しく記録した学者・小プリニウスの名前が由来とされます。  大量の軽石や火山灰を放出する大規模な爆発を伴い、噴煙は柱状になって高さ10キロ以上に達することもあります。79年の噴火で噴煙は最高30キロ、噴出したマグマ量は約4立方キロと推定されています。富士山宝永噴火(1707年)のマグマ噴出量は約0.7立方キロとされ、5倍以上にあたります。


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