「私のような人事部たたき上げが、人的資本経営の人材戦略を担うなんて無理かもしれない」
小売企業に25年以上、人事部一筋で勤めてきた寺岡修さん(仮名、50代)の口から本音がこぼれた。2023年3月期決算から人的資本の情報開示が義務化され、世間と投資家の目は厳しさが増している。企業は人件費をコストと考えてきたが、最近は「人材は重要な無形資産」「経営の中核だ」と態度を変え始めた。人事部には中長期的な目線で経営戦略に沿った人材戦略が求められるようになったが、「その割に予算が減ることはあっても、増えることはない」と寺岡さん。
社会の変化を受けて、仕事内容も煩雑化している。「これまでは採用と研修、労務的な役割を愚直にこなしていれば評価されたが、今は違う」。
人材の売り手市場で採用は難航。採用支援サービスも多様化し、時流についていくのも大変だ。これまで通り画一的な研修制度を続ければ従業員に見放されてしまう。
寺岡さんは「人事部も本当は未来を見据えた前向きな人事施策をやりたいと思っている」と話す。しかし、実際は従業員の不正やハラスメントの対応に追われる日々。昔のようにハラスメントの当事者を違う部署に飛ばせばいい、といった単純な対応は許されない。細かくヒアリングして原因を究明し、対処法を探り、再発防止策を策定したうえで社内に徹底周知。一連の仕事を怠れば、「ガバナンスはどうなっているんだ」と人事部にクレームが来る──。
「人事部はこれまで『組織を守ること』を重視してきた。でも人的資本経営をするなら『組織を壊すこと』もちゅうちょしていられない。私のような従来の人事担当は仕組みの改善はできても、抜本的な見直しはできないのではないか」「自分の25年間は何だったのか、これから何ができるのか」──。
寺岡さんは不安を抱えながら、自問を繰り返す日々を過ごしている。
9割「人事部に不満あり」
日経ビジネス電子版の読者を対象に7〜8月に実施したアンケートでは、9割弱が「人事部に不満がある」と回答した。不満の具体的な内容については、人事経験のない人の場合「評価制度(58.1%)」「採用(37.0%)」「コミュニケーション・相互理解の不足(34.8%)」の順に多かった。自由回答欄には「仕事のやり方を昔から変えず、目の前の業務をこなすことに精いっぱいになっている(製造業、30代)」「人事部門は変化をリスクと考えて行動を起こさない(製造業、60代以上)」などの意見があり、人事部を見る目は冷ややかだ。
人事部に求められる役割はこれまで以上に増えている。従来の給与計算、勤怠管理、就業規則の整備といった労務管理に近い仕事に加え、リスキリング(学び直し)や人的資本の情報開示に伴う施策とデータの収集なども加わった。商社に勤める30代の人事担当者は「現行の施策は減らぬまま、新しい業務は増える一方。働き方改革を促す立場の人事部が仕事に追われて残業三昧だ」と皮肉まじりに嘆く。アンケートでは、人事経験者の94.9%が「人事部の負荷は高まっている」と回答した。
人事経験者に人事部の課題解決に必要なことを聞いたところ、「デジタルトランスフォーメーション(DX)・人工知能(AI)活用(35.9%)」が一番多かった。自動化できることはAIに頼り、人がやるべき人材戦略の立案などに注力することが望まれる。
2位は「人事業務の外部へのアウトソーシング(26.9%)」だ。全社に共通する研修は外部委託する、採用は外部との連携を強めるなど、従来の業務の見直しを求める声が上がっている。DXと同様に、人事が対応すべきことは何かを見極めることが求められる。
HRBPの導入、機運高まる
多くの人事担当者の悩みとして、経営層と事業部との「板挟み問題」がある。人事経験者からは「経営者は導入が現実的ではない仕組みを提示し、人事部に調整役を丸投げする(製造業、50代)」「上層部が考える施策と現場の要求が合わない(製造業、50代)」という声が寄せられた。
事業部について理解を深めるため、「現場経験を積ませてから人事部に配属すべきだ」という意見も多いが、転職市場が活発化する中、配置転換を前提とした育成方針は崩れつつある。職務を明確にするジョブ型人事制度の浸透で強制的な異動も命じにくくなった。
そこで期待されるのが3位の「HRBP(人事ビジネスパートナー)の導入(25.6%)」だ。HRBPは経営者や事業部門の責任者らのパートナーとなり、経営戦略に必要な組織形成や人的配置などを担う。「日本の人事部 人事白書 2024」によると、HRBPを導入している企業はまだ16.6%だが、今後設置する予定の企業は11.8%と、導入の機運は高まりつつある。経営層、事業部、人事部の3者の相互理解を円滑にし、より効果的に人材戦略を実行することへの期待は高い。
改善策の「その他(24.4%)」の自由回答で特に多かったのは、「経営層の人的資本経営の重要性への理解促進」を求める声だ。「評価制度や研修体系などを社長が朝令暮改しすぎている(IT、40代)」「時代に即していない経営層のオーダーが強行されることがよくある(IT、40代)」。
複数社の社外取締役を務め、経営戦略に詳しい東京都立大学大学院の松田千恵子教授は「人的資本経営を重視する企業は増えた。だが、経営者が真にその重要性を理解し、リソースを割けているかは疑問だ」と話す。人事施策はすぐには効果が表れない。中長期的に取り組む必要があることを経営層は理解しなければならない。
人的資本経営を実現するために必要なことは何か。意識と制度の両面から組織の在り方を抜本的に変えることだ。
サミット、「人事部」を廃止
机いっぱいに広げられた資料は日焼けし、所々破れた箇所がセロハンテープで留められている。左上には昭和53年(1978年)の文字。樹形図の頂点には「サミットストアでのHappy lifeの実現」と書かれている。
これはサミットに代々受け継がれてきた労働条件一覧だ。人事業務・企画部/人財・組織開発部担当の安田大輔執行役員は大切そうに資料を広げながら、「当時の労使トップが作成したもので、今でいう人的資本経営を実現するためのマップだ」と話す。
「ハッピーライフの実現」という理念は変わらずとも、その手段は時代によって変わる。
同社は24年4月に「人事部」を廃止し、「人事戦略本部」を新設した。人事戦略を商品企画と店舗運営に並ぶ事業戦略上の中核と位置づけた。配下に「人事業務・企画部」と「人財・組織開発部」を設け、労務管理と制度設計、人材育成と組織開発の業務範囲をより明確にし、機動力を上げる狙いがある。
サミットではこれまで、相対評価によって、マネジメントできる人材の育成に注力してきた。しかし、店長や副店長といったポジションには限りがある。どれだけ優秀でも昇格できなければ評価はなかなか上がらない。来年度から相対評価だけでなく、個人の努力も評価する制度を導入する予定だ。
安田氏は「今後は能力開発を手厚くしながら、個性を発揮できる制度に変えていく。約25年ぶりの大変革だ」と意気込む。
組織や制度を変えるときに苦労は付き物。経営層に人事部や現場の思いを伝えて、だんだんと擦り合わせていく必要がある。安田氏は「人事や組織は『トップが描く未来への思い』で動くため、その確認は直接している」と言う。経営者の言葉を受け入れるだけではなく、人事としての意見もしっかりと伝え、「ぶつかり稽古」を重ねている。
今後の課題は非正規雇用者の制度整備だ。「非正規への対応はまだ遅れている」と安田氏は認める。責任のある仕事を担うパートタイム社員には、それに応じた待遇を講じられる制度整備を目指す。安田氏は「やりたいことはたくさんある。DXやAIなどを活用しながら、どんどん改革を進めていきたい」と意気込みを語る。
人的資本経営が注目され、新しい業務が増えている一方で、人事部に追い風が吹いているのも事実だ。これまでの組織の在り方や業務を見直す好機が来ているとも考えられる。社内外からの圧力に頭を抱えるだけの日々から抜け出すのは今しかない。
評価制度が不満のトップ、56%「働き方改革進まず」
本編でも紹介したアンケートによると、「人事部に不満がある」と回答した割合は、人事経験がない人の場合は90.7%と人事経験者よりも12.5ポイント高かった。
「所属長が高評価を付けても、実態を認識していない人事が独自に昇給降給を調整する(金融・不動産、60代以上)」「コミュニケーションは人事部から社員への一方通行で、意見を吸い上げる気がない(製造業、40代)」「管理というより監視の目で物事を動かそうとするため、従業員が窮屈になる(その他、40代)」などの声があった。
人事経験がないがために不満が高まりやすいことを考慮しても、なぜここまで差がついているのか。
その答えは、双方が考える「課題」と「不満」の乖離(かいり)にありそうだ。人事経験者は人事部の課題として「採用(44.9%)」「人材配置(43.6%)」「人材育成(43.6%)」を上位に挙げている。中長期的な目線での人材管理が求められる人事部では、人材の確保は重要任務だ。人手不足が深刻化し、新卒社員の争奪戦が激化する中で、各事業部から「もっといい人材を採ってくれ」とせがまれ、対応に追われている。成長環境が整っていない職場には人が集まらないため、育成制度も随時見直さなければならない。
人事が採用を課題視する一方で、人事経験のない人は、「評価制度」に不満を感じている人が58.1%で最も多い。2位「採用(37.0%)」と比較しても、圧倒的に不満度が高い。対して、人事経験者は評価制度が4位(38.5%)であり、社員との課題感に差が見られる。収入やボーナスに直結する評価を重視するのは当然という見方もある。しかし、「賃金・待遇改善」に不満を抱く人は25.2%で6位だった。賃金や待遇そのものというよりも、努力や実績への評価に不満を感じる人が多いようだ。
課題感のすれ違いは、働き方改革の受け止めにも影響が出ている。「働き方改革は進んでいると思うか」という問いに対して、「取り組んでいない」「あまり進んでいない」と回答した人は56.0%だった。賃上げや労働時間を是正する機運が高まる中、人事部の努力もむなしく、半数以上がいまだに働き方改革を実感できていない状況が明らかとなった。
人事部としては、目の前の社員の不満だけに向き合うわけにもいかない。将来を見据えた施策を考えることも人事の役目だ。調査結果を見た人事担当者は「(課題感に)これだけ差がつくのは意外ではない。社員からしたら評価はボーナスなどにも影響するから一大事だろう。でもこちらにはこちらの事情がある」と言う。
しかし、それでは人事部と現場は融和せず平行線のままだ。人事部との「相互理解が不足している」と感じる人は34.8%で3番目に多い。現場の未経験者が人事部配属になっても機能する体制の構築が必要だ。
理解促進の一つのカギとなるのは「最高人事責任者(CHRO)」の人選だ。人事役員の肩書をCHROに変える企業も出てきているが、EYストラテジー・アンド・コンサルティングの鵜澤慎一郎パートナーは「CHROを置く場合、人事部出身ではなく、事業部から選抜することが望ましい」と指摘する。
人事部長は従来の人事業務、CHROは人材戦略という具合に、役割を明確にする。これにより、人事部は現場の意図をくみ取りやすくなり、食い違いを解消する一歩になるだろう。
(日経ビジネス 藤原明穂)
[日経ビジネス電子版 2024年9月9日の記事を再構成]
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